2020年8月26日水曜日

ダンスの歴史と教育(的ななんか難しい話したくない話)

  こんにちは、ちょっと面白い話をいただいたので考察してみることにします。

「お前の中ではな!」的な話になってしまうのでこういう考え方もあるのねーという教育者向けな話かと思います。

まず、産業でまとめます。(誤植ではありません)

1、ダンスは人間の社会活動に必要だから発達した

2、ダンスは言語や発声と同じ「真似」をすることから始まるコミュケーション手段

3、ダンスを合理的なビジネスにした結果、その必要性があいまいになってしまった

この記事では上記を軸に展開していきます。


1、ダンスは人間の社会活動に必要だから進化した。

人間集団が血縁関係を超えた連携を築く際に相手を見極める手段として音楽と踊りが進化したという仮説があります。(Edward Hagen)

実際世界各地の少数部族ではその集団個々のダンスを持っていて、それを踊れることが部族識別や他部族との信頼関係(相手の踊りを覚える)を構築するのに役立っています。日本でいうと「方言」が近いでしょうか。

このブログでは例によってあんまり難しいことを書きたくないので

「踊るとエンドルフィンがドバドバ出て、みんなが仲良くなる。という歴史的事実があります」くらいで。

だからダンスは必要なんですよーっていう理解です。

もうすこし補強すると、

耳に訴えるコミュニケーション手段が言語、音楽

感覚に訴えるコミュケーション手段がハグや手をつなぐ

じゃあ、あと足りないもの。あるよね?

目に訴えるコミュニケーション手段がダンス

ダンス大事OK?

2、ダンスは言語や発声と同じ真似をすることから始まるコミュケーション手段

上と同じ事を書いているように感じると思いますが、切り口が違います。

高度な知能を持つ生物、というと近年では語弊がありますので「模倣」という能力を手に入れた生物集団と表現します(すでに難しくてすみません)

鳥も一部のクモもダンスをすることで知られていますが、集団で同一の振り付けを行い踊る生物は今のところ人間だけです。

これは人間が特に「同調」する生き物で周りにいるほかの人間を「引き込む」ことができ、引き込まれた人間も「模倣」する能力があるからです。

同調する能力3歳から5歳くらいで確認されていますが、真似(模倣)する能力は生後目が見えるようになってすぐに発現します。その後、永遠に人は真似をし続けます。

相手と同じ言葉、相手と同じ表情をすることで人は共感し絆を深めます。日本だとそれが強すぎて同調圧力となってしまうこともありますが、世界のダンス界から見ても日本人の集団舞踊はどのようなジャンルにおいても高評価であるのはご存じでしょう。

これらはすべて、相手を観察し同じ動作をすることから始まります。

バレエであろうと、ジャズであろうと、ヒップホップであろうとダンス三万五千年(ピレネー、イストュリ洞窟)の歴史の中ですべては真似(模倣)から始まり、独自の要素をさらに追加することで発展してきたはずです。

基礎、とか基本、とかで考えていると生徒も先生もつらくなります。

真似してー。真似ができた。じゃあ、ここからさらに難しい技を!

自分の中にダンスの歴史を再現すると幸せです。

「それは専門的すぎる」「まだそれは早い」っていう発言が生徒や子どもから出てしまったときは、ダンスの問題ではなくカウンセリングが必要な状況です。

真似をする→できない→もっと真似をする。これしかないのに

専門的だからできない→終わり。これはもう教育の視点をいったんダンスから離したほうが良いと私は思います。


3、ダンスを合理的なビジネスにした結果、その必要性があいまいになってしまった

ここまで読んでいただいた方はもう気づかれたかと思います。

1を前提にして2が展開され2を前提にして3を展開します。そんな話でこれが最後。よろしくお願いします。

ダンスというものはもともと部族集団をまとめ、集団的ストレスを減らし、他部族社会とのコミュケーション手段として数万年使用されていたことがわかっています。


つまり、ダンスは力です。一定以上の権能のある技術です。近年ですとタンゴの発祥と発展の歴史等はwikipediaの記事だけでもよいので読んでほしいと思います。

歴史が長くなり、芸術として進化しているクラシックバレエやソシアルダンスとちがい、まだまだ歴史が浅くそれだけに、タンゴやミロンガが何を繋ぎ、どのように必要とされていったのかがよくわかると思います。

誤解が起きそうなので蛇足しておきますが、アルゼンチンタンゴ界でもクラシックバレエを学んだ方が活躍しています。歴史を知っていただくために例にアルゼンチンタンゴを挙げました。

このように本来はダンスは人類の社会構築になくてはならないものであり、いわば

肉!野菜!ダンス!

しかしながら、踊るという行為がその人類の積み重ねによって体系化し複雑になっていく過程で「ダンスを踊る」「ダンスを教える」という行為がビジネスになっていきます。

この法則はありとあらゆるものに発生しているので何も特別なことではありません。

ただ、ダンスを芸術や技能としてとらえるならばかつてはこうだったはずです。

「素晴らしいダンスをを披露する人」

            と

「それをお金を払ってでも教えてもらいたい人」

憧れのあの人のようになりたいという強烈な同調です。

いまの現実は

教師になるのにダンスが必修だからとりました……

学校でダンスやるっていうから習わせたいんです!!(本人興味なし)

芸能人になりたいけどダンスができないとだめなので……(これはまだましなほうかな)


要するにこういうモチベーションでダンスをやろうという人たちが教育機関には集まります。

ダンスが好きで、踊りたくて、表現したい人はいつでもどこでも踊って、いつの間にか集まって必然的に世に出てきます。

だから、全く踊りを知らずそれでも学校に行って踊りを教わるタイプの生徒さんを教える先生は、前提を変えなければならないと私は考えています。


なぜあなたは踊るのか?

おそらくこの質問すらピンとこない「何言ってるの????」っていう子が出るでしょう。

ダンスを教える先生にとってはとてもきつい話ですし、おそらくもう知っている先生方もいらっしゃるでしょう。

「ダンスを教える授業なのにダンスに興味のない生徒が入ってくる」

これが今です。これはダンスだけではありません。多くの業界でそういう状態になっています。


最後になりますが、時代のフェーズ的にはまとめてしまうと

部族の言語だった時代

結束の手段だった時代

技術や文化の伝達ビジネスの一つだった時代

全員踊れないとなんかいけない風潮な時代←イマココ


私は踊りのメソッドを教える前に、なぜ踊るのかを教えないといけない時代が今なのだと考えています。


長くなってしまいましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。