2016年10月22日土曜日

病や障害と社会参加の話

 新たな病名が与えられたとき、
診断されたほうもそれを免罪符にし、聞かされた周囲の方もそれを免罪符にし双方

「しかたないね」

で片づけてしまう場合があります。しかし、ラベルに安心する前によく考えてみていただきたいのです。

病気や障害は確かに存在した場合は仕方ない話になると思います。

認知症がわかれば、ケアプランはそのように建てます。これも当然の話です。

ですが、診断はあくまで問題を明確にし、隠された問題も認識し(見える化)対処をかんがえるために行われるものです。

だから発達障害がわかりました。  認知症がわかりました。 うちの子は重度の障害を持っています。

考えなければいけないのは

「では、どう工夫して今後の生活を送っていくか」です。

「うちの子は最重度なので……」というセリフをよく聞きますが、最重度だとしても、介助を受ける際にほんの少しお尻を挙げてもらう。少しだけでも背中に力を入れるように練習していく。これもリハビリであり社会参加のための練習です。

また、何年もメンタルクリニックに通っていて
「やる気になったらやりましょう」という指導を受けている方がいます。(最近そういう指導をする場所も減りましたが)

やる気があってもレギュラー取れなかったら試合に出られませんし。

やる気がなくてもその時期が来たら働かなければいけないのはすべての子供が同じです。

つまり障害の度合いによってその義務や責任の重さ軽さはあるにせよ。必ず社会に参加しなければいけないのは日本にいれば当たり前のことです。

自分も含めて、私のところに相談に来る親御さんにも利用者さんにも、もちろん悩んでいる本人にも必ず言うこと。

すこしでもいい、最小の社会である家庭でも、一日1円稼ぐでも、とにかく社会にかかわることをやめてはいけない。それだけは放棄してはいけない。

だからこそ、病を診断されたとき
ゴールを設定し達成段階を考え(実行するかしないかも達成段階の一つです)

モニタリング(どこまでできたかな?)をおこない

アセスメント(再評価と判断をみんなで)

ゴールを変更したり、ハードルをコントロールしたりするわけです。

休むという行動も、次に動くために休む達成段階の一つです。

むずかしいですよね……

病や障害と社会参加の話

 新たな病名が与えられたとき、
診断されたほうもそれを免罪符にし、聞かされた周囲の方もそれを免罪符にし双方

「しかたないね」

で片づけてしまう場合があります。しかし、ラベルに安心する前によく考えてみていただきたいのです。

病気や障害は確かに存在した場合は仕方ない話になると思います。

認知症がわかれば、ケアプランはそのように建てます。これも当然の話です。

ですが、診断はあくまで問題を明確にし、隠された問題も認識し(見える化)たいしょをかんがえるために行われるものです。

だから発達障害がわかりました。  認知症がわかりました。 うちの子は重度の障害を持っています。

考えなければいけないのは

「では、どう工夫して今後の生活を送っていくかです。」

「うちの子は最重度なので……」というセリフをよく聞きますが、最重度だとしても、解除を受ける際にほんの少しお尻を挙げてもらう。少しだけでも背中に力を入れるように練習していく。これもリハビリであり社会参加のための練習です。

また、何年もメンタルクリニックに通っていて
「やる気になったらやりましょう」という指導を受けている方がいます。(最近そういう指導をする場所も減りましたが)

やる気があってもレギュラー取れなかったら試合に出られませんし。

やる気がなくてもその時期が来たら働かなければいけないのはすべての子供が同じです。

つまり障害の度合いによってその義務や責任の重さ軽さはあるにせよ。必ず社会に参加しなければいけないのは日本にいれば当たり前のことです。

自分も含めて、私のところに相談に来る親御さんにも利用者さんにも、もちろん悩んでいる本人にも必ず言うこと。

すこしでもいい、最小の社会である家庭でも、一日1円稼ぐでも、とにかく社会にかかわることをやめてはいけない。それだけは放棄してはいけない。

だからこそ、病を診断されたとき
ゴールを設定し達成段階を考え(実行するかしないかも達成段階の一つです)

モニタリング(どこまでできたかな?)をおこない

アセスメント(再評価と判断をみんなで)

ゴールを変更したり、ハードルをコントロールしたりするわけです。

休むという行動も、次に動くために休む達成段階の一つです。

むずかしいですよね……

2016年10月8日土曜日

メモ書きのような記事になってしまいますが


 もしかしたら、思春期前後の発達障害を持つ保護者の方や雇用されている方に

考え方の一つとして参考になればと思います。

 私自身の体験談からですが

 農作業で汗をかいたのでシャワーを浴びようとしたところ妻から

「ついでにお風呂掃除もしておいて」

と言われました。

ところが、夕方になりお湯を張ろうとした妻から

「これちゃんと掃除した!?」

と注意されました。湯船を見ると確かに髪の毛やごみが浴槽の床に残ってしまっていました。

眼鏡をかけないで掃除をしたので全く見えなかったのです。


さて、一般的なみなさんでしたら????となるでしょう。これの失敗のキモはプロセスの割り込みです。

普段の私の風呂掃除
1、湯船の水を抜く
2、窓を開ける
3、はだしになって浴室浴槽を洗う
4、シャワーで、周囲を流す

終了です。

今回の私は
1、シャワーを浴びるために裸になる
2、シャワーを浴びた後、つ  い  で  にお風呂を掃除する←指示通り
3、窓を開けないで掃除
4、シャワーで周囲を流す

何が足りないか?眼鏡をかけていなかったのです。結果的に何も見えない状態で浴槽を掃除しました。もちろんできていませんでした。

ハイ、そこ 眼鏡かければいいじゃんとか言わない。


お風呂掃除という一連のプロセスにシャワーを浴びつつついでにお風呂掃除という別のプロセスが加わったのです。

もう少しわかりやすく言うと

A:風呂の掃除
B:シャワー
C:シャワーを浴びるついでに風呂の掃除

これは全く別のプロセスになります。つまり、新しくC:シャワーを浴びるついでに、風呂の掃除

というルールを設けなければなりません。これが一般人が発達障害の方に悩む部分かと思います。

これを、頑として
B:シャワー を完了した後に服を着て準備をしてA:風呂の掃除として行うと、一般人からは

「ついでにやればいいのにコダワリが強いのが障害ね」と言われます。

あんまりコダワリではないのです。観察したうえでコダワリというカテゴリーにいれるなら明らかにコダワリなのですが、問題は
AとBとCは独立していて、AとBを同時に行うことはできないということです。

アドベンチャーゲームやチャート式の何かで言うと一方のルートを選んだらもういっぽうは選べない。

Aさんと結婚したら、Bさんと結婚はできない。こういうことです。

基本この部分にさえ気をつけておけば大体社会生活はできます。